新たに東陽テクニカに加わった自動車メーカー出身のエンジニアに聞く
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フル・インジェクションの開発に基礎から取り組んだことがキャリアのスタート地点
——:新たに東陽テクニカの一員となられたわけですが、自動車メーカーであるホンダ様に在籍していた時代にはF1でアイルトン・セナ選手のエンジンを担当されるなど、有名エンジニアの一人として知られた方でもあります。今回は木内さんの今までの経歴や東陽テクニカで取り組まれたい事柄などについてお聞きしたいと思います。まずは、大学卒業後に木内さんがホンダ様に入られた経緯からお聞かせください。
木内健雄(以下、木内):私は大学が電子制御、コンピュータのソフトウェア専門のような学科で、米国のコンピュータ会社の日本支社への内定が決まっていたのですが、当時は内定といってもそれほど縛りの強いものではなかったので「日本のメーカーも受けてみたい」と思い、大学の先生と話をしたのです。
そこで、「ホンダというまだ小さい自動車メーカーがある。後発だけに電子制御のような新しい分野にも取り組もうとしているようだから、面白いんじゃないか」という話があり、私はアポなしで入社のための申請書類を取りに行ったのです。
——:約40年前ということになると思いますが、現在とはずいぶん就活事情が異なりますね。
木内:そうしたら、たまたま人事の課長さんが出てきてくれて、1時間くらい話をして、「それでは、入社の申請書類は大学の方にお送りしておきますね」ということになったのです。当時、私は卒業研究の関係で大学と郵政省の電波研究所に一日おきに交互に出向いていたんですが、ホンダに行った翌々日に大学に行くと、先生から呼び出されて「お前、ホンダで何をしてきた?」と。なんでも「昨日、ホンダの方がここへ来て、内定を伝えに来たぞ」というわけです。
やはり電子制御方面に本格的に入っていくために、当時のホンダには「その方面の人材はなんでも確保しておけ」というような人事方針があったのですね。そのあたりはタイミングなのだと思います。
——:入社後、最初はどのような職務に就かれたのでしょうか。
木内:新しくできたフュエル・インジェクション(FI)のグループです。最初はキャブレターの大きなグループの中の一グループという感じでした。そこでホンダ自前の(電子制御式のフュエル)インジェクションのシステムをつくる“ド基礎”の部分から先輩達と一緒にやりました。とにかく入社後の5~6年は、インジェクションを早く開発して、それを全機種入れ替えていく、ということで、アッという間に過ぎました。
——:ある意味、大学の先生がおっしゃっていたような展開だったわけですね。
木内:幸運だったと思うのは、最初から携われたので、イチから取り組めたことです。次の機種開発からは完了した基本部分には取り組みませんでしたから。それを含めていろいろな意味でよいタイミングだった、と思うところがあります。
少し話は逸れますが、20歳代前半で本当に自分の道を見つけられる人なんてそうそういるわけではない。漠とした思いがあって、そこに世の中から降ってくる偶然が合わさって、というようなものだと思うんです。もちろん、まず思いの部分はないといけませんが。
業界スタンダードになるような技術にトライして成功しないとF1で1等賞は獲れない
——:次に木内さんが参画されたのが、ホンダ様の第2期F1活動(1983~92年参戦)ということになるのでしょうか。
木内:ホンダエンジンがF1界で強くなってきた頃でしたが、それにつれてレギュレーションでターボの過給圧や燃料使用総量が規制されたりもしてきた時期で、これはもう電子制御でギリギリまで性能を出すことをしなければ勝てなくなる、と。そこで制御系の開発をしていた私に声がかかりました。 1987年でした。中嶋悟さんが日本人初のF1レギュラー選手としてホンダエンジン搭載のロータスからデビューした年ですが、中嶋さんが当時自己最高の5位に入ったベルギーGPが私にとって初のレースの現場でした。
——:初の現地実戦で印象に残ったことなどはありましたか。
木内:あのレースではホンダ勢4台のうち、セナ(当時ロータス・ホンダ)とナイジェル・マンセル(ウイリアムズ・ホンダ)がぶつかって、ピットでは殴り合いの喧嘩をしているし、ネルソン・ピケ(ウイリアムズ)はマシントラブルでリタイア。中嶋さんは5位に入ってくれたんですが、これはとんでもないところに来たな、という思いがしました。
翌88年からは開発面も続けつつ、レースでのマシン別の担当エンジニアもやることになり、中嶋さんの担当につきました。89年はアラン・プロスト(同年チャンピオン、マクラーレン・ホンダ)、そして90年はセナ(同年チャンピオン、マクラーレン・ホンダ)と担当して、91年からはエンジニアをまとめるような立場になりました。
——:91年もセナ選手がチャンピオンになり、当時のマクラーレン・ホンダは88年から4年連続でタイトル独占という強さでした。特に印象に残るレースなどはありますか?
木内:91年のハンガリーGP、本田宗一郎さんが亡くなられた後のレースで、セナが喪章を巻いて走って勝った時は初めて涙が出ました。ライバルのウイリアムズ・ルノーが強くなっていた時期で、正直、勝てるとは思っていなかったのです。
ドライバー:アイルトン・セナ 手前:木内
——:そういう時期、何か新しいことにもトライされるのでしょうか?
木内:ちょうどその頃、実を言うとプロジェクト内の正式な手続きを踏まずに関係会社にお願いして可変トランペット(可変吸気菅長システム)という新しいものの用意を進めていました。なかなか開発を(正式には)認めてもらえなかったのでそうしたわけですけど、それをテストで使ったら、セナが「ものすごくいい」と言ってくれました。
そしてハンガリーGPの次々戦イタリアGPで初めて実戦投入して優勝するのですが、ピット内でウォームアップモードを設定するのも大事な目的のひとつでした。ガレージでエンジンのウォームアップをする時にボタンを押すと12個のトランペットがガチャガチャ作動するわけです。またホンダは何やらすごいものを持ち込んできた、とチーム、ドライバー、ライバルに視覚的に見せるインパクトも狙いました。チームの士気という部分で、そういう目に見えるかたちのことというのも私は大切だと思うのです。横から(当時ウイリアムズ・ルノーの)マンセルも見ていましたね。
この可変トランペットは、その後の業界スタンダードになった技術です。そういうことをしないと1等賞は獲れない世界なんです、 F1というのは。のちの第3期(2000~08年参戦)にも私は4年ほど携わりましたが、その時もやがて業界スタンダードになるシームレスシフトというものに取り組みました。
技術を進める秘訣は加工と計測の進化にある
——:1992年限りで第2期F1活動は終了。その後の木内さんはどのようなキャリアを重ねられたのでしょうか。
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