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元寇船の発見とテクノロジーの進化

東海大学名誉教授 根元 謙次

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目次
  1. 蒙古襲来の地
  2. 海底考古学との出会い
  3. マルチファンビーム音響測深機と音波探査機による沈没船調査
  4. 海底面下の探査と142点の異常反射体
  5. 海底から約1m下までがターゲット
  6. 元寇沈没船の発見
  7. 海洋探査とテクノロジー

蒙古襲来の地

13世紀末、鎌倉時代後半にモンゴル皇帝フビライ汗は二度にわたり日本への侵略を試みました。これは元寇、あるいは蒙古襲来と呼ばれ、最初の試みを文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)といいます。弘安の役では東路軍と江南軍と呼ばれる二つの強力な軍団、朝鮮半島と中国南部から計4,400隻の軍船、兵士14万が出兵した、とされます。この戦いの様子は『蒙古襲来絵詞』の後編(図1)に描かれていますが、この規模の軍船で14万もの兵士をどのように九州まで運んだか、など多くの疑問が残ります。弘安の役では船と兵士は大暴風雨におそわれ、避難した戦力の7割が伊万里湾にて壊滅しました。

図1:肥後国御家人・竹崎季長を中心とした絵巻『御厨海上合戦』(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)

伊万里湾(図2右)は長崎県と佐賀県の間にあり、120平方キロの面積を持つリアス式海岸を特徴とし、湾内には多数の島々が点在します。湾の北には鷹島、南を北松浦半島により閉ざされた閉鎖型海湾であり、湾奥の伊万里港を拠点とした海上交通の歴史が続いてきました。江戸時代には伊万里港は伊万里焼の積み出し港として広く知られています。伊万里湾沿岸には「、管軍総把印」をはじめとして元寇にかかわる刀剣や船材の一部が以前より発見されていました。元寇船の発見を目的に1980年代より文部省や教育委員会を母体とした文献調査や遺物分布に基づく潜水調査、そして、80年代後期にはエアーリフトによる海底の泥の吸い上げ作業による調査が行われましたが、元寇船の発見には至りませんでした。

図2:伊万里湾の位置(右)と調査航跡(左)

海底考古学との出会い

私の研究領域は海底地質構造の解析、海底断層、大洋底での海底資源探査を対象とした、海洋地質学です。2016年に亡くなられた荒木伸介先生(海底考古学者)との出会いが、私と海底考古学との最初の接点です。先生は、北海道江差町沖・開陽丸の調査をはじめ、日本における水中遺跡調査の礎を築き、また、伊万里湾での元寇の海底遺跡調査にも携わってこられました。

従来の水中考古学の世界では、遺物の発見などであたりをつけた場所を対象とし、ダイバーや研究者が潜って海底を調査します。しかし、伊万里湾では、これまで船体の発掘などの直接的な発見には至っておらず、荒木先生の提案に基づき、伊万里湾にて2005年より海底資源探査による探査手法を開始、そして、 2011年に泥に埋もれた元寇船の発見に至りました。13世紀の船が初めて構造の分かる形で発見された瞬間でした。

マルチファンビーム音響測深機と音波探査機による沈没船調査

元寇船の発見には、
①詳細な海底表面の様子
②海底より下の泥層内部の状態
を知る必要があります。ジュール・ヴェルヌが海底の世界を夢見たのは19世紀末、人々が音波を利用して水深測定を開始したのが20世紀前半。それ以前、人々はロープの先に重りをつけ、それを垂らすことにより水深を計測。現在では①海底の様子を明らかにするには、マルチファンビーム音響測深機(図3)を使います。この装置は海底に向け船の下から放射状に多数の指向性の高い音響ビームを発し、膨大な数の面的な高精度水深データを取得し海底地形や海底の様子を詳細に再現する技術です。

図3:マルチファンビーム音響測深機

伊万里湾での総調査日は114日、探査測線の総距離は1,522km(図2左)に達し、この資料から、基本図や3次元化した海底地形図(図4)が作成されました。さらに、伊万里湾内の海底には4 隻の沈没船が識別できましたが、これらは、現代の船(図5)と判明。以上から、 元寇船は、既に、海底堆積物に完全に被覆されていると推定し、測深機と同時に稼働した②海底より下の泥層内部の探査を目的とした、ポータブル高分解能音波探査記録の解析を沈没船調査の中心としました。

図4:3次元化した伊万里湾の海底地形

図5:海底面上の現代沈没船

海底面下の探査と142点の異常反射体

音波探査とは、音響測深機よりもさらに低い周波数音波を発振し、海底と海底下の地層境界で反射した反射波を記録し、基本的には海底地質構造を知る方法です。海底面を通過した音波は、②地層面だけでなく、遺物を含む反射面で反射しながら、一部はさらに深部へと透過します。

そこで、音波の指向性の広い(広い海底領域を捉える)音波探査記録の解析から、泥層内部に周辺の泥と不調和な142点の反射体(異常反射体)を湾全体で識別しました(図6)。図の赤い点は異常反射体の位置を表し、その多くは伊万里湾北東海域、つまり鷹島南岸沖を中心に分布します。このように調査域全域に及ぶ概査、その結果として得られたいくつかの異常反射体を対象とした局地的な調査を精査としました。

精査では、概査に比べさらに狭い指向角の音波探査により、スポットライトを海底に当てるように反射体の形や埋没位置などを詳しく調べます。そのためには音波探査装置のなかでも極めて指向性の高い(±1.8度)最新の音波探査機器を使用しました。

図6:周辺と不調和な142点反射体(異常反射体)の位置を赤点で示す

海底から約1m下までがターゲット

沈没船の期待できる海域を湾の北東域(鷹島南岸沖)と推定しましたが、湾での沖積層の層厚は最大約40mであり、 142の異常反射体のうちどの(埋没)深度の異常反射体がターゲットなのか、が問題でした。調査対象の深度を絞り込む必要があります。一方、謎の強反射面が海底面下数十cmから最大でも海底面下10m付近に連続して認められます(図7)。図7中央の水平な(volcanic ash layerと付記)湾に広域に分布する反射面です。そこで、音波探査記録と伊万里湾での海底ボーリングによる地質データとの対比を実施、その結果、この反射面は約7,300年前に九州南方、大隅海峡付近の鬼界カルデラの大噴火に伴い噴出した火山灰層(鬼界アカホヤ火山灰)と判明。すると、弘安の役(1281年)の時間を示す地層は沿岸部では海底面近く、沖合いの平坦な海底でも海底面からせいぜい約1m下となります。以上から、潜水発掘のための候補点を142点から海底面表層部に分布する11点の異常反射体に絞りました。

図7:音波探査記録、火山灰層(鬼界アカホヤ火山灰volcanic ash)のつくる
7,300年前の反射面

元寇沈没船の発見

東海大学の研究グループが抽出した11点の異常反射体について、調査活動を共にする琉球大学を中心とした水中発掘班が発掘調査を実施しました。船体の発見に至った鷹島南岸、神崎港南西200mにある反射体No.3(図2左)での音波探査記録の二断面を上下に示します(図8)。この記録は、海底を包丁で縦に切ったイメージと理解して下さい。

上の図には、右上から左下に傾いた海底面を示す線と、海底面下約1mの深度に“反射体(No.3)”とマークされた弧状の幅約11mの異常反射体が見えます。下の図は上と類似しますが、発掘後の海底が凹んだ同じ位置での記録です。両図の比較から異常反射体と遺跡との一致が確認できます。

このNo.3地点(図2)の発掘域から、船体の一部である木材群や多量の磚(せん)と呼ばれる中国製のレンガ、そして陶磁器が発見され、さらに、このような遺物の下に、船体の一部である長さ13.5mのキール(竜骨)を船体の復元が可能な状態で発見しました。キール長を元に復元された軍船は全長約20m以上、100人以上の兵士を運ぶことができる可能性があったことも明らかとなりました。これは、『蒙古襲来絵詞』から想像された船体よりはるかに大規模であり、歴史的発見です。さらに、伊万里湾のほぼ中央には、前述したNo.3での弧状の異常反射体と酷似する反射体の存在も確認、その大きさは発掘された軍船の倍であり、さらに大規模の元寇船が埋没している可能性を指摘できます。

図8:反射体No.3音波探査記録 上図は発掘前、下図は発掘後の記録を示す

海洋探査とテクノロジー

深海潜水艇の誕生・進化により、深海底にそびえる中央海嶺での海底火山活動の直接的な観察が可能となり、科学上、多くの発見がありました。最近では、有人潜水艇による南極海の氷山付近でのメガサイズの生物群集の発見など、驚くような新知見が次々と公表されています。海底に埋もれた元寇船の発見もまた、海底考古学との連携、そして海底探査技術の進歩によるものです。海洋科学における新たな発見はテクノロジーの進化に依存しているのです。本調査は文化庁補助事業、科学研究費(長崎県北松浦郡鷹島周辺海底に眠る元寇関連遺跡・遺物の掌握と解明、課題番号18102004)が使用されました。

筆者紹介

東海大学名誉教授

根元 謙次

1978年東海大学大学院海洋学研究科博士課程を単位修得後退学、81年からハワイ大学海洋地質・地球物理研究所に勤務。南太平洋の海洋地質調査に従事。94年から東海大学海洋学部教授。著書に『太平洋における地質学・地球物理学アトラス』など。2017年から東海大学名誉教授。